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日本の教育は英語の文法だけじゃなく、会話も授業に入れるべき

確かに中学から高校にかけての6年間、アルファベットを覚えるのから始まって文法中心の授業が進んできた。やっぱり日本の英語教育は””Writing,Reading,Hearing””はこの6年間で学ぶけど、””Speaking””はやらない。それが影響していてなかなか英会話はすらすらしゃべることはできないというのが正直なところです…やっぱりもっと英会話をする機会を義務教育のうちから取り入れるべきである。大学で英会話授業をやってて、帰国子女や、数年留学に行ってた人なんかは非常に流暢。その辺で差を感じる。ちまたでは小学校から英語の授業を取り入れていくと言われているがゆとり世代の自分には関係の無い話となってしまっている。また、留学にいっている友だちの話を聞いてても英会話の実力の差を感じているそうだ。日本は英語をinputするだけでoutputする機会がなさすぎると思われる。

上記の文章は私の息子が書いたものです。現大学生の息子に中・高校の英語についてどう感じたか、平成生まれの英語の学習方法についてどんな現状だったのかを知りたくて今回息子に協力してもらいました。やはり私の時代と余り変わりは無かったみたいです。

息子の感想のように、やはり留学体験者は英会話が堪能です。息子は息子なりに話せるように努力はしていますが、わたしのかつての経験した短期であっても留学しないと話せるようにはなれないってことです。それにはまず海外で「No Japanse」=自分から一切日本語を断ち切る環境が必要なのです。英語だけでなく、息子の友人は現在韓国へ1年の留学中。やはり現地へ行ったことで韓国語がかなり上達したとも聞かされています。

やはり日本の教育は英語の文法に拘りすぎだと私も息子も強く感じております。もう少し義務教育のうちから英会話の授業を積極的に取り入れてほしいものです。私の高校時代の親友Uさんだって、日本に来た頃は全く日本語が話せなかったのに、わずか1年であんなに話せるようになりました。彼女のようにやはり母国語以外の国へ行ったり、留学しないと現地言葉は100%までにはいかなくとも、話せるようにはなりません!

中・高校時代の長い6年間のうちに学んだ英語の知識って文法のみだけ。会話なんて全然身についてないじゃないですか。ですから英会話力ないままに社会人になってしまってるこの日本の英語の教育方針は間違っています。企業へ就職するに当たり、コミュニケーション能力って問われてますけど、国際コミュニケーションの能力の方はどうなんですか?問われてませんよね?ここが矛盾しています。

もう少し語学力を身につけられる様な教育方針へ変えることは出来ないのでしょうか?将来通訳とか翻訳家とかなりたいって夢を持ってる子供だって沢山いるはずです。そういった小さいうちから英会話の授業を積極的に取り入れれば、簡単な会話なら早く出来るようになるのではないでしょうか。

中・高校の先生方もそうです。高校では交換留学制度を取り入れてる学校が多いですが、肝心の英語担当の先生が会話一つ出来ないんじゃ話しになりません。それでは生徒に示しがつきませんよね。だから先生もどんどん英会話を話せる力をつけるべきだと私は思うのです。でないと、海外から日本へ留学した人が日本の英語教育に対して不信感を抱く懸念があります。

私は中学卒業レベルの英会話は出来るようになりました。それは2年間NG学校で生のアメリカ英語を学べたことと、オーストラリア短期留学に参加できたお陰です。若いころ覚えた事は今でも忘れません。是非義務教育から英会話の授業を取り入れるべきです。

短期留学で本当の英会話とコミュニケーション力が学べた理由

短期留学中には、週末はホームステイがありました。40人のメンバーに各自決められたホストファミリーの所へ2人ずつ行く配置がもうすでにされてました。私を迎えてくれたホストファミリーはM夫妻。実はM夫妻はアメリカ人でした。1人娘はシドニーに嫁いで夫婦2人暮らしでした。でもホームステイでも驚きの連続。部屋には暖炉、庭にはプール付き。日本では考えられないほどの土地の広さ!いかにオーストラリアは広いってことを実感しました。

ではM夫妻はアメリカ人であるのに何故オーストラリアに移住したんでしょうか?その理由は?1人娘がオーストラリア人の男性と国際結婚してついてきたのも同然だったのですが、シドニーより離れたこのブリスベーンで土地を買って家を建てたのです。日本ではとても考えられない100万で家が建てられたそうです。しかも庭にプール付き!素敵な家で庭には奇麗な花が沢山植えられていました。

M夫妻はとても親切にしてくれました。夜になるとさすがに冷え込んできたので暖炉に火を入れて。これも日本にはありません。暖炉って本当に暖かい。日本では石油かガスストーブが当たり前だけど、こうして暖炉のそばでくつろぐなんて今しか出来ない貴重な体験でした。

食事の時間に私は梅干しをW夫妻にあげました。M夫妻は「OH! This is pickled plum.On showing this,I warmed to Japan.(おお!これは梅干しじゃないか。これを見て日本が懐かしくなったよ。)」M夫妻は昭和39年の東京オリンピックの時に丁度日本に来たらしく、オリンピックを見学したことがあったそうです。観光旅行の目的で。その時の日本選手の活躍ぶりに感激して以来、日本人が好きになったと言うエピソードも話してくれました。だから今回日本人を受け入れるホストファミリーに積極的にG大学に申し込んだそうでした。

ホームステイの週末。とっても楽しい思い出ばかりです。M夫妻は色んなブリスベーンの観光案内をしてくれました。ゴールドコースト、サファリパーク、色んな動物と触れ合えるブリスベーンのZoo(動物園)。私はゾウに乗ったことがありました。ゾウの背中は大きくて下を見下ろすのが怖いくらいでした。可愛いインコとの触れ合い。せさをあげたりして楽しいひと時を過ごしました。

勿論「No Japanise」でしたから、会話も常に生英語。M夫妻は日本語は一切話せませんでしたので、私は自分なりの表現法で会話をし、国際コミュニケーションを学ぶことが出来ました。完全ではなかったですが、いつしか私も少しずつ英会話が上達していきました。これもオーストラリアに短期留学できたお陰です!両親に、そしてこの企画をたててくれたNG学校に感謝の気持ちで一杯でした。

ホームステイは週末3回行われ、いよいよお別れって時にM夫妻から頬にキスされました。私は「もうこれで2度と会えないかもしれないけど、必ず御礼の手紙を送ります。」と言って別れました。「Good Bye. My best kind of M family・・・.(さようなら。一番親切にしてくれた私のM家族。)」

そして8月11日。全ての日程を終えて日本へ帰国する日が来ました。私はこの短期留学で本当の英会話とコミュニケーション力をつけることが出来ました。その理由とは。やはり本当の海外へ行って「No Japanese」状態じゃないと英会話は出来るようにならないことと、国際人との交流によって国際コミュニケーション力を付けることが出来たのです。これもひとえに短期留学へ行かせてくれた両親、企画をしてくれたNG学校に感謝の気持ちで一杯です!

オーストラリアは素敵な国だが、アメリカ英語が通じないのは何故

オーストラリアに来てG大学の寮に滞在する生活。朝食は毎日スクランブルエッグ、ベーコン、トースト1枚、サラダ、牛乳でした。でも日本と違ってベーコンとスクランブルエッグは何だかサラダ油でべたべたした感触でした。別に不味かったわけではないのですが、何だかサラダ油の量が多すぎるのではないかと思いましたね。何だかねと~っとしていて、オーストラリアの食事に慣れてない私たちは朝から胃もたれを起こしてました。

最初の1週間は物珍しさで美味しく食べてましたが、そのうち段々飽きてきました。やっぱり私は日本人。母の毎朝作ってくれる味噌汁の味が恋しくなりました。だからベーコンとスクランブルエッグを省いてトースト、野菜サラダ、牛乳で済ませるようになりました。これは2週目に入ってしばらくしてからのことでした。

短期留学の英会話の勉強も日増しに熱が入るようになってきました。毎日特訓の連続でした。挨拶はちゃんと出来なくてはならないし、簡単な日常会話は絶対に出来るようにならないといけない、いわばスパルタ教育のようなもので、厳しかったです。でもあんまり連日厳しいのもなんだからということで講師からオーストラリアの文化についてのお話があったり、時には歴史の話があったりしました。オーストラリアは移民の国で、遠くからはイギリス、フランス、ドイツといったヨーロッパから移住してくる人々が多かったとか。その他ではアメリカ、カナダ、中国、韓国なども移民でやってくる人たちも大勢いたのです。

ある日、外出許可が出たので、私は仲良しになった友人たちとブリスベーンの街中を散歩がてら買い物を楽しみました。ブリスベーンの街中はとても賑やかで人であふれかえってました。お土産を買いたいと思ってある店に入り、皆で色々お土産用のものを選んでました。この時代、まだオーストラリアへの日本人観光客は珍しかったらしく、店員が英語で「観光で来たんですか?」と聞いてきました。私たちは「はい、そうです。今日は買い物で街中を歩いてます。」と答えたんです。すると店員の顔が。もしかして私たちの話した英語が通じて無かったのでしょうか?理解できてない様子でした。もう一度同じことを言ったのですがやはり理解できてないようでした。何が理解できてなかったのでしょう?英語なのに。後で分かったんですが、実はオーストラリアは独特のなまりがあり、例えばToday(今日)はアメリカではトゥデイと発音します。でもオーストラリアではトゥダイと発音しないと通じないと判明し、なまり英語では通じない、私たちの今まで勉強してきた英語の発音はアメリカ英語の標準語だったのでした。ですからアメリカ英語ではオーストラリア人には通じない所が沢山あったのです。日本語にも名古屋弁、関西弁、東北弁などのなまりがあるのと同じで。

さすがにオーストラリアでアメリカ英語が通じない所があると初めて分かりました。I(私)とアメリカ英語で「アイ」と言っても通じなかったです。でもオーストラリア英語はアメリカ英語と違い、話し方がゆっくり目だったので聞きとりやすい面はありました。現地の人たちはアメリカ英語風に早口で話されると理解できないみたいです。

「How much is it?(それいくらですか?)」の言い方もアメリカとは違ってたような覚えがあります。その他も単語に対して同じ英語であってもなまりの強いオーストラリア英語は違和感だらけでした。

国によって同じ英語を話していても時には通じないことがあるということも勉強になりました。良い体験になりました。

短期留学先憧れのオーストラリア!そこで試される自分の英会話力

オーストラリア短期留学メンバー40人を集めて説明会が行われました。現地へ行くのは夏休みの7月14日~8月11日までと決定しました。時差ボケはないにしても、いくら憧れのオーストライアといえど、向こうは南半球。日本とは季節がまるきり反対なので、冬物を用意しなくてはならない話が出ました。でも日本のように雪が降るわけでもなく、冬でも温暖な国なのでそんなに分厚い冬物は持っていく必要はないでしょうと説明担当の先生から聞きました。

両親も喜んでくれて、旅費のことは心配ないとは言ってはくれましたが嬉しかった半面、何だか私の為に短期留学代の約40万を出してもらうことに申し訳ないと思いました。学費だって高いのに。でも両親は勉強の為なんだから大きな顔してればいいと励ましてくれました。

只困ったのは服装についての買い物でした。オーストラリアは冬。でも温暖な気候と言われてるので分厚い冬物は要らないと説明の時に言われたものの。それに夏休みでしたから今時大型スーパーやデパートで冬物の服なんか販売されてることがないので仕方なく、自分のある冬服装で持っていくことにしました。後は日本食で梅干し、インスタントの味噌汁を持っていくことにしました。

7月11日。いよいよオーストラリアに向けて出発の日が来ました。私は母と一緒にタクシーで空港に向かいました。父は仕事で忙しく、私を見送ることは出来ませんでした。出発ロビーにはすでに短期留学のメンバーと引率のチューター(男性)が集まっていました。私はまだ見ぬオーストラリアへの期待と不安を胸に母に見送られて皆と憧れのオーストラリアへ飛行機で出発しました。

異国の国、オーストラリア。カンタス航空を利用し、翌日の朝ブリスベーン空港へ無事に到着。オーストラリアの冬の朝はやはり寒かったです。夏もので出発した私たちはすぐに長袖をはおりました。用意されたバスに乗り込み、短期留学先のG大学へ向かいました。G大学はブリスベーンでも指折りの大学でなかなか入れないそうでした。日本でいえば東京大学?名古屋大学?のレベルに等しかったです。

G大学は日本の大学とは違い、土地が広くてまるで森の中に学校があるみたいなそんな印象でした。とにかく木々が多くて庭だらけ。私たち40人の寝泊まりする大学の寮を案内されました。40人1人ずつ個室が与えられてこれはもう本格的な留学生活です。G大学は実はこの時冬休みで、大勢の下宿生徒は故郷に帰ってると言うことで寮の部屋がたまたまあいていたのです。でも中には故郷に帰らないで残って寮生活してる生徒もいました。

さあ~、いよいよ試される私の英会話力!日本語は一切使えません。到着した日に教室を案内されて、クラスは二手に分けました。名前が「カンガルーチーム」と「コッコバードチーム」。私は「コッコバードチーム」になりました。「コッコバード」は日本語で訳すと「ワライカワセミ」です。あの「ケケケ~」と本当に人間が笑っているかのように鳴くあのオーストラリアにしかいない鳥です。

G大学での短期留学生活のスタートを切りました!日本語は一切禁止。午前中は英会話の授業をみっちり3時間行われました。NG学校の時よりすご~く厳しくてハードな授業!しかも質問されたことに答えられないと叱られました。「○○、Can you speak English,really? Why wha’t do you do in Austrlia?(○○、あなたは本当に英語話せますか?何故あなたはオーストラリアに何しに来たんですか?)」と厳しいG大学の講師の生徒への質問です。

私は質問されると自分の英語力を試されてると実感しました。

本当に英会話をマスターしたい!それには短期留学を試すしかない

あっという間に2年目になりました。月日がたつのは本当に早く感じるようになりました。私は19歳になっていました。学校の掲示板に「オーストラリア短期留学希望者募集」との貼り紙を目にしました。オーストラリアへ短期留学。1か月の短い期間だけど、週末はホームステイ、平日はオーストラリアでも有名なブリスベーンのG大学へ体験入学出来るとのこと。行けるのは40人まで。短期留学に参加するためにはあるテストにパスしないと参加資格が得られないそうでした。

そのテスト内容とは?「English Compostion=英作文」を書くことでした。題名は「今まで英会話を学んできたことについての感想」でした。これを自分で表現法を考えて感想文として書かなくてはなりません。小学生の頃読書感想文で悩んだことよりももっと難しいと感じました。これを日本語としての感想文ではなく、英作文として自分の頭で考えて書くのです。頼りになるのは和英辞書のみ。でもチューターはなるべく和英辞書を頼らずに今まで学んできた英語力で作文を書くべきだと言いました。

さすがにNG学校。英語のスキルに対しては厳しいです。でも未知の世界オーストラリアへ短期でもいいから留学してみたい!どんな国なのか、どんな街なのか興味津津でまずます行きたいという思いは募るばかりでした。だったら試験を何としてでもパスするしかありませんでした。

試験の感想文は自宅で書くように言われて私は和英辞書を片手に机に向かってました。今までの感想文を英文にして書くと言うことは私にとっては難易度が高いものでした。何としてでも留学メンバーの40人のうちに入りたい!それにはこの英作文を良い表現法で書かなくてはチャンスを逃すかもしれないという思いが私を支えてくれました。オーストラリア短期留学で本当の英会話をマスターしたい!そして人生初めての海外の文化も学んでみたい!両親もOKしてくれたので、必死に感想文を書きました。

提出期限が迫ったある日、短期留学の希望者は60人いたということが分かりました。希望者が60人・・・。じゃあ20人は確実に落ちるということ。私はこの時、自信を失いかけてました。40人の中に私なんか入れやしないと。レポート用紙に私なりの感想文一生懸命書いたけど、果たしてパスできるのかどうか?不安感が常に襲い始めました。そして試験の感想文の提出の日。窓口の人に試験用の感想文を提出しました。合否の発表は1週間後。ああ~、ドキドキしながら合否を待つことになりました。

合否のまだ出ない1週間の間私は落ち着きませんでした。落ちたらもう短期留学は出来ないんだ・・・。チャンスはもうないのだと。授業も上の空で聞いていました。何も手が付かず、夜も眠れず、週末は寝込んでしまいました。頭の中はもう「私は不合格かもしれない、オーストラリアには行けない。」と激しく落ち込んでました。試験用で書いた感想文も何だか滅茶苦茶だったし・・・と。

そしてついに合格発表の日が来ました!掲示板に短期留学作文テストの合格者40人の名前が学校の掲示板に貼り出されていたのです。私はドキドキしてしまい、掲示板を見る勇気がありませんでした。でも丁度その時傍にいたクラスメートのXさんが「貴方の名前あるよ。一緒に行けるね。」と言ったのです!「え?私の名前がある?」私は半信半疑で掲示板を覗きました。そしたら順位ギリギリの38位で短期留学の権利を握ることが出来たのです!この瞬間私は今までの緊張感がすっかり取れて「やったぁ~!これで短期留学に行ける。」と。40位までの下から2番目の38位。でもいいのです、順位など。

英会話を学び始めてから自分の中に中・高校時代の英語勉強に疑問

NG専門学校へ入学し、慣れない生活で疲れが出たりしながらも復習はかかせませんでした。でも土曜日・日曜日と学校が休みで、ゆったりとした気分で体や心を休めることが出来ました。土曜日の午後はラジオの音楽番組を聞きながらリラックスしたり、日曜日は民法のラジオの音楽番組を聞いたりしてました。週末は勉強すること以外はラジオを聞くことで私の余暇になっていました。テレビは勿論見てましたが、あの頃はベストテンのランキング番組が多くて、毎週楽しみにしてたのです。どんな曲が上位になるのかと。今みたいにスマホやパソコンなんて無い時代でしたから。

さて、NG学校での1日のカリキュラムは1時間の授業は90分でした。中・高校時代は45分とか50分授業でしたから倍に長く感じたことも多々ありました。でも好きな英語を学べて志望校へ入れた私は恵まれてるのでちっとも苦痛には感じませんでした。特に今までに経験の無かった英会話の授業とヒアリングの授業はとても私に充実感を与えてくれました。でも正直ヒアリングの方は難しかったです。それを聞いて書く。生の英語ですから話すスピードも半端じゃないですから「え?」と分かってないままに終わってしまうことがありました。

生の英会話の授業が進むにつれ、私はあの中・高校時代の6年間の英語の勉強法に疑問を抱き始めました。今こうしてアメリカ人講師から話せるように一切日本語なしでやっているのに中・高校の6年間は会話の授業など1度もありませんでした。只ひたすら文法を勉強して重要な所は先生が読んで覚えておくことと日々言われて・・・。一体あの勉強法は何だったんでしょうか?折角6年間も貴重な英語を勉強してきて、話せる力等ないままに卒業してしまいました。これでは何の効果もないまま6年間を終えてしまったということになります。

英会話の授業では文法など全然触れませんでした。話す力をつけるため、相手の話してる言葉をよく聞きとるスキルも必要とされる。そして理解できれば返答する。日本語の場合でもそうです。相手の話をよく聞きとってから自分の言いたいことを返す。これが日常あたり前とされてますが、英会話を勉強し初めてやっと分かったこと。それは中・高校の6年間の英語の授業は英会話については真剣に取り入れてもらえなかったということです。そういえば英語担当の先生が英会話してる所など見たこと有りませんでしたから。

英語の教育に会話ほど重要なものはありません。なのに6年間も英語を勉強してきて何も話す力等教えてもらえなかったなんて。私は当時も今もあの6年間の英語の勉強法に失望感を感じています。ひたすら文法ばかり覚えても結局は話せることに繋がらなかったことを。そしてNG学校に入ってそのことにあたらめて気が付きました。2年間で英語を話せるようにマスターしなくてはならないんです。何と言う短い期間でしょうか。1年目の私にとってはまだまだ会話に対してはスキル不足で、本当に話せるようになるのかな~って不安になってきました。

英会話は私にある意味すご~い重要性をもたらせてくれました。話すことの大切さ。日本語以外のことを自分の表現にして話せるようになるレッスン。それが「English Good Expression(直訳すると英語でのいい表現)」です。どうやって英語で相手に分かるように話せるようにするのか?自分にとっては楽しくもあり、難しくもあったのです。英会話は文法など関係ありません。本も何も見ずにとっさに自分なりの表現で話せないといけないってことがよ~く分かりました。

アメリカ人講師との出会いで本格的生英語学び始めた

入学式を終えてすぐに翌日から授業が始まりました。授業の開始は9:20からでした。中・高校時代と違って朝はゆっくり目で家を出ることになり、通学は楽になりました。通学方法は高校と同様自転車でした。自宅からNG学校までは約30分の距離でした。

授業初日の日。アメリカ人講師が教室に入ってきました。わあ、アメリカ人の先生だ!何を話すんだろうか?アメリカ人講師は男性で、B先生といいました。B先生は日本語は話せるそうですが、授業では一切日本語は話さないということでした。身長が高くてすらっとした体型。いかにもアメリカ人らしい男性の先生でした。最初に挨拶した言葉は「How do you do! New NG sudent members. My name is B.O. I am English Conversation teacher.(初めまして!NG学校の新入生さん。私はB.Oと申します。私は英会話担当です。)」自分ながらによくB先生の初めての挨拶言葉よく覚えていたなぁと思います。と言いますのは隣に通訳のチューターの人がいたからです。

これからは英会話を勉強するにあたり、「No Japananise.」でやっていくとのことでした。上達させるためには日本語は一切なしと言う規則だったのです。でもB先生もリラックスした授業をしたいと心得ていたので最初は簡単な挨拶程度の会話からスタートさせたいと話しました。

英会話=Engilish Conversationの本格的スタートを切りました!中・高校時代で学ぶことのなかった生のアメリカ英語!わ~、生英語。興奮に陥ってしまった私。余りの興奮感に私は思わず「OH!」と声が出てしまい、B先生に名簿を見ながら名前を覚えられ、「○○!(私の名前)Please your mind relax.(○○さん!心を落ち着かせてね。)」と言われてしまいました。(笑)

B先生は若くて30代前半の男性でした。既婚者でアメリカに妻子を残しての単身赴任?でしたね。よく妻子のお話を聞かせてはくれましたが・・・。私達生徒はアメリカ英語がまだまだ理解できなくて四苦八苦したものでした。少しわかったのは奥様が料理が上手でお子さんは愛らしいことぐらいだったでしょうか?やはり初めての生英語の授業で生徒をリラックスさせたいB先生の配慮だったと思います。何せB先生は奥様とお子様をとても大切にし、愛してましたから。単身赴任で日本に来たからこそ、その思いは強かったんですね。さすがに素敵な旦那様です。

アメリカ人の初めて聞く生英語。やはり中・高校の学んで読んで聞いたものとは全然発音が違います。今まで日本語感覚でしかボキャベラリーを勉強してなかったので最初から生英語・会話は難易度が高いか?と思ったりもしました。でもこれが本当の最初のレッスンだったのです。アメリカ英語の発音。これはヒアリング力もつけないと分かるようにはならない!?でもちゃんとヒアリングの授業は設けてありました。何でも初めての事ばかりで戸惑い、不安、違和感などありましたが、これが本当の英語力をつけるための授業だったんですね。一体中・高校と貴重な6年間も英語を勉強してきたのに、あれは一体なんだったのでしょうか?

あの6年間の英語の勉強。確かに英語の授業に変わりはなかったですが、文法ばかり中心だったことに改めて気付いたのはこの時期からでした。

無事志望校に合格!翌年4月から専門学校へ入学し英語勉強開始

NG専門学校に無事合格できたことにより、私の友人たちは喜んでくれました。でも大学受験を控えてる人は「いいね、年内中に進学先が決まって。」と羨ましがられました。そう、大学受験は翌年1月の共通一次(現・センター試験)の成績次第で決めるものでしたね。担任の先生も私の合格を喜んでくれて、「君は合格できると思ってた。4月からは頑張って勉強しなさい。」と励ましてくれました。とても嬉しかったです。勿論親友のUさんも自分の事のように喜んでくれました。彼女も日本語を教える先生として行先が決まってました。

冬から春へ季節は移動し、3月高校を卒業しました。親友Uさんとはこれからも連絡を取り合う約束をしました。4月いよいよNG専門学校に入学する日が近づき、私は親せきのスーパーで3月の少しの間アルバイトさせてもらい、その給料で初めてのスーツを買いました。入学式用に着る新調のスーツです。髪は初のパーマをかけました。高校時代はパーマ禁止でしたので。でも高校卒業して何もかも学校の規則から解放されて自由になれました。これからは私服で通えるし、お化粧も自由に出来るようになりました。18歳の青春が始まろうとしていました。

4月入学式の日を迎えました。初めてのアルバイトで買ったスーツを着て入学式に出席。これからの新しい生活に向けて不安と期待が私の頭の中をよぎりました。これからは好きな英語が本格的に勉強できるんだ~頑張らなくちゃ!とすっかり張り切ってました。当時は仮校舎になってましたので、予備校生と混じることがあったんです。新しい校舎はまだ工事中で半年後に完成予定だったとのことで、入学して暫くは仮校舎にて勉強することになりました。

無事進学したい学校へ行けた私は恵まれてました。向かい側にK塾のキャンパスがあり、大勢の予備校生が歩いていたんです。予備校生にしてみれば、現役で志望校に合格できなかったことは高校3年をもう一度やっているようなものだという会話を聞いたことがあります。大手塾ですから学費も当然高かったです。志望校に受験できるチャンスは来年になってしまい、この1年が勝負でどうしても今度こそは合格したい!と言う執念で燃えていた予備校生が多かったです。

K塾の大ホールでNG専門学校の入学式は行われました。新調のスーツに身を固めて緊張していた私。もう中・高校とは違う大人への第一歩を踏み出したのです。どんなことが私を待ち受けているのか?不安感の方が段々大きくなってきました。同じ高校から行った人はいましたが、私の知り合いではなく、同じクラスにもなった事のない人でした。だから1人で入学したも同じだと何だか寂しくなってきて・・・。新しい友達は出来るのか?色んな高校から集まってきた人たちなので今までとは違います。

入学式の後、クラス発表がありました。クラス分けはF1~F4まで。私はF4に入りました。1クラス40人くらいでした。そしてチューターの自己紹介がありました。チューターというのは担任の先生の事です。そしてこれからの学習のカリキュラムについての説明会がありました。「皆さんは激戦の中から合格され、本日めでたく入学された方々です。これからはNG学校の一員としてしっかり英語を学び、2年後の卒業後には誰もが英会話を出来るようなレベルになっていただけるように努力して頂きます。私たちも皆さんの語学レベルアップに是非とも協力いたしますので、これからの2年間共に頑張っていきましょう!」

チューターの一言で折角志望校に進学できた喜びでいっぱいのはずなのに、私は本当にこの学校でやっていけるのだろうかと段々不安になってきました。

高校の担任の先生の勧めで私は英語専門学校を推薦で受験!

高校3年の12月。寒い冬がやってきました。私は担任の先生と母との進路最終面談で夏休み頃から希望していたNG専門学校を受験することに決めました。担任の先生は本当に強く私をNG専門学校への受験を勧めてくれました。他に受けたい大学は1件もありませんでしたので、英語の成績が基準の3.0以上ありましたので、推薦で受験することに決定しました。

徐々に大学や専門学校へ推薦受験する生徒も増えて、授業中に空席が目立つようになりました。でも推薦でも受験は受験ですから、欠席扱いには勿論なりませんでした。

さあ、いよいよ私のNG専門学校の推薦受験の当日の日が来ました。覚えてるのは受験当日の日は雪が少し降っていたことです。父の車でおくってもらい、胸ドキドキでNG専門学校の仮校舎へ入りました。控室には他校の生徒が大勢待機していました。試験は筆記試験と面接でした。筆記試験の内容は意外と難しかったです。推薦の割にはレベルが高かったと記憶しています。筆記試験の後は面接。これは団体面接でした。4人の面接官に対して4人の受験者が並んで座りました。1人ずつ違う質問を投げかけられました。私の番が回って来て、質問内容は「今の1$は何円ですか?」と聞かれました。私が受験したころの1$は日本円で約250円~260円の時代でした。ですから「約260円です。」と答えました。印象に残った質問でした。

あとはどうしてこの学校を選んだのかとか、入学後は特に何を勉強したいかなどの質問で面接は終わりました。12月も半ば過ぎになり、寒さも本格化して雪はやんでませんでした。合否は翌日の朝速達で郵送されるとのことでした。もう一晩で合否が出るなんて何と早いものか!ああ~、推薦受験終わったばかりなのに、翌朝までドキドキしてなくちゃいけないのか~と落ち着きませんでした。

推薦受験の終わった夜はすっかりクタクタ。緊張感の中で筆記試験と面接を受けた私。でも合否はもう翌朝速達で郵送されてくる。まだまだ緊張感からは解放されず、手には汗を握ってました。眠れない、すっかり興奮して眠れませんでした。合否の行方がもう起きたころには郵送されてくる・・そう思うと私の胸は張り裂けそうなどうにもならない気持ちでした。もし落ちたらどうしよう?もう他には受験する学校がないし。不安でたまらない一晩を殆ど眠れずに時間だけが過ぎていきました。

推薦受験したのは土曜日だったので、丁度学校の休みの日でよかったんですが、速達が届くまでの時間、私は家じゅうをウロウロしてました。母に、「もう少し落ち着けないのか?」と言われ、「だって・・・。」と言葉が出ませんでした。「いつ来るんだろう?合否の結果って?封筒が薄かったら不合格って聞いてたから。」寒いはずなのに汗が出てました。私はもう何だかどうにかなりそうだったのです。

午前10時くらいだったでしょうか?郵便局の配達員が「○○さんあてに速達です。」わ~、ついに来る時が来た!私はますます胸がもう爆発するくらいになっていました。母がハンコをおして速達を受け取りました。「さあ、届いたよ。中を開けてみたら?」私はブルブル震える手で母から速達の手紙を受け取りました。感触が「あ、何だか分厚い?これはもしかしたら?」早速ハサミで封筒を切り、中身を見ました。そしたら!「合格おめでとうございます」の言葉がありました。とうとう私は翌年4月からNG専門学校へ進学することが決まりました。あの志望校に合格できた喜びは昨日のように覚えています。母と抱き合って喜びました。

本物の英会話が学びたい!話せるようになりたいと両親に相談

夏休み前の進路懇談会の日、担任の先生は母に私が英語の専門学校へ進学を希望している話をしてくれました。母のその時の反応は「はあ・・でも先生、うちの子は内気で自分から人に話すことが大の苦手なんです。そんな子に英語の学校なんてとても無理なのではないですか?」私は心の中で母に対して「む、また否定的なことを言ってる!」と少し怒りがこみあげてました。どうしてこう私の両親は否定的なことばかり言うのだろうか?そういえば小さい時から「よくやったね!」なんて誉められたこと1度もありませんでした。たまにテストでいい点取っても、「あんたがこういう点なら皆もいい点だわ。」としか言われた覚えがありません。

そこで担任の先生が言った言葉で私の自分に対する価値観が変わりました。「いえ、お母さん。この子はすごい努力家です。努力すれがどこまでも伸びる性質を持っています。学校では率先して人に英語を教えたり、積極的に図書館に行って勉強してるんですよ。」あの担任の先生から私が「努力家」と言われたあの言葉。すごく貴重な、重みを感じた一言でもありました。先生が人生初の私と言う人柄を認めてくれたのです。両親すら私のこと誉めたことなかったのに。

それから先生が付け加えた言葉が「お母さん、あんまり○○さん(私の名前)のことをよく分かってらっしゃらないような気がするんですが・・。何でもダメと決めつけないでこの子の秘めた可能性にかけることに協力してもらえませんか?本当にどこまでも頑張れる力を持っていますよ。頑張れる力が無くては努力など出来るはずがありません。」「そうなんですか?うちではそんな子に感じないのですがね。」「ホラ、それがお子さんに対する否定的な言い方です。それは止めてください。お母さんは固定観念が強すぎます。本当に○○さんのこと認めてますか?信じてあげてください。本気で英語の専門学校に行きたいと思ってる気持ちは組んであげてください。あとは家族でよく話し合ってください。よろしくお願いします。」こういったやりとりで3者面談は終わりました。

自宅に戻ってから母は「あんたが英語の学校へ進みたいなんて思ってるなんて考えもしなかった。」と言いました。「なんでそんな大事なこと今ままで黙ってたの?」「だって前の漫画家になりたいってことで否定されたから話しずらかった。」「あんたって子はいつも肝心なこと話してくれない。まるで男の子みたいだ。」何だか母の失望した様子がうかがえました。肝心な時に何も話してくれないってことに対して。子供時代に親から否定的なことばかり言われるとさすがに言いたいことも言えなくなってしまった私になってしまいました。

語学の学校へ進学するのはある意味私の今後の人生を大きく変えることになるかもしれない。もし英会話が話せる勉強が出来るんだったらどんなに難しくても厭わない!もう私の中で決心はどんどん固くなる一方でした。

でも今はそんなことを言ってる場合ではありません。父にも英語の専門学校へ行きたい話をしました。父はあっさりと「自分の人生は一度しかない。行きたければ行けばいい。」と簡単に賛成してくれました。母も最初は否定的に言ってましたが、徐々に私の進路の決意の強さを知ったのか、最終的には「あんたの行くべき道へ行きなさい。」と言ってくれました。

父は「英語は難しいぞ。俺は話せないが、アメリカの慰安旅行へ行ったときに言葉の通じない不便さをひしひしと感じたよ。お前に出来るかやってみろ。」と励ましの言葉でした。結局思い切って相談してよかったんです。

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