Authorbluefish2017

高校3年の進路決めで英語中心の勉強が出来る学校を発見!

高校3年生の夏休み直前、進路説明会がありました。進学クラス全員を集めて体育館で先生から色々説明を聞きました。「これからの夏休みが君らの進路を決める正念場である。どこの大学・専門学校へ行くかは君たちが決める事。何でもいい。不安なこと、分からないとこがあれば進路担当の先生に聞きなさい。」この言葉の響きに私はこれからの進路きめが私の人生に関わってくるんだと感じてました。

進路相談室には沢山の大学、専門学校のパンフレットが置いてありました。私の通ってた高校は「付属高等学校」と言われてたので、そのまま上の大学に進める選択技もありました。でも自分には目ぼしい学科がありませんでした。語学関係の大学ではありませんでしたので。体育科、家政科、幼児育成科などがあった大学でした。

Uさんと放課後に毎日のように進路相談室に行ってた私達。私は英語に関する大学か、専門学校を探してました。でも大学はレベルが高そうで自分では一般試験を受けるのは何だか無理そうと思いました。語学関係の大学、専門学校の案内パンフレットが並んでいました。私はどうしても英語を学びたい。英会話を専門にしてる学校は何処にあるのだろうかと必死に探しまくりました。

語学の大学、専門学校の案内パンフレットを色々見てるうちに自分は大学へ行くより、専門学校の方があってるような気がしてきました。専門学校の中で1件ある有名な学校名を発見!それはK塾の経営しているNG専門学校でした。ここには「英米語専門学科」「秘書コース科」などの2つの科に分かれてました。詳細をよく読むと、「英米語専門学科」では英会話、ヒアリング、英文作文、リーディングなどがありました。

私はNG専門学校を目にしたときから、この学校にしたい!と決めました。でも入学条件として、英語の成績が3.0以上ないといけないと言うことでした。他の科目は全然成績には関係なかったのでこれはいい!私にとって相応しい学校なのでは?と予感しました。好きな英語が終日学べる!こんな好条件は他校にはありません。Uさんにも相談したら、「うん、これあなたにいい条件かもよ。先生に相談してみたら?」「うん、そうだね。」と早速担任の先生に相談を持ち掛けました。

担任の先生は私の3年間の英語の成績を調べて、「うん、君の英語の成績は3・5あるから受けられるチャンスは十分あるよ。でもまずご両親にも話さないとね。」先生は私の志望校に対して受験を賛成してくれました。でも両親に相談となると?いつしか漫画家になりたいってことで否定されたことがあり、また英語勉強したいなんて言ったらまた否定されるんじゃないかと後ろ向きな考えになってしまいました。夏休み前の懇談会で先生は親に話してくれるとは言ってはくれましたが・・・。私はどうしても否定されることに不安を抱かずにはいられませんでした。

でもどうしても自分で見つけたところだからどうしても行ってみたい!その専門学校で本当の生の英会話を学びたい!と言う思いはますます募るばかりでした。Uさんも「ご両親を説得するにはあなたよ。そんなあなたの人生を否定ばかりしてたらあなたの進むべき道がないじゃない。」本当に頼りになる親友Uさん。Uさんの言葉に励まされてとにかく、両親を説得してみようという気になりました。

果たして私の両親は英語の専門学校へ行きたいと思ってることに対して賛成してくれるか?反対するか?もう後には引けません。自分の進路は自分で決めるもの。いよいよ私の進路決めが本格的に始まりました。

本当に必要なのか?英語を学ぶにあたって文法って何の役目するの

高校3年生になりました。クラス編成で進学クラス、就職クラスと分かれました。私は進学クラスになり、親友のUさんも進学クラスで同じクラスになりました。Uさんとはいつでもどこでも一緒でした。昼休みの弁当の時間とか、放課後の図書館。毎日彼女といるのが日課になりました。いつも進路のことを2人で話し合いました。Uさんの希望は勿論中国残留孤児の人たちの為に日本語教育の先生になることでした。私は?迷いがありました。英語を話せたらどんなにいいか。Uさんは日本語を教えられる能力があるのに。私は英会話の能力すらない。Uさんとの間にすごく差を感じてしまいました。

Uさんの進路の夢は「私はこれから中国から日本へ帰国するという残留孤児の人たちの手助けをしたいの。やっぱり日本語話せない不便さは感じたんでその人たちのお役にたてたら、それでいいの。」確かに。彼女は日本へ来て全然話せなかった苦悩をしてるから、これから中国から日本へ帰国する人たちに一言でも早く日本語を覚えてもらいたいという夢と情熱で溢れていました。彼女らしい選択です。

そしてこの私は?英語は好きです。でも会話力がありません。Uさんのように言葉を教えるスキルなど全然ありません。一体進学クラスを選んだものの私は何が出来るんでしょうか?一時は趣味の絵が好きなので絵画関係の大学か専門学校へ行きたいと両親に相談したところ、生前の父に「画家や漫画家になれるわけない!そんなもんでお前に一生飯が食えるわけがない!」と猛反対をされました。私は子供のころから絵を描くのが好きで大人になったら「漫画家」になりたいという夢は持っていました。それが父の一言で夢はもろくも崩れてしまいました。両親からは「絵は趣味として一生やって行けばいいい。その方がお金もかからないし、第一漫画家なんて大それた夢にしか過ぎない。」と私の夢は否定された、とこの瞬間感じました。

では私は一体何をしたらいいのだろうか?段々自分自身が見えなくなり、部屋で泣いてました。私には何もないのか?Uさんのように語学を教えることも何もできない。夢ももう果たせそうにない・・と。否定されて実に悔しかったです。実の両親にあんなこと言われるなんて。ショックでした。

親友のUさんに相談しました。Uさんは「あなたの両親はあなたのことを心から心配してるのよ。だって漫画家って成功するか失敗するかのどちらかになるでしょう?私もそういう世界は良く知らないけど、売れなかったらお金は入らないってことになるわよね。厳しいこと言うようだけど、私もあなたの両親の意見に賛成よ。」さすがにUさんは苦労してることだけのこと有ってそれなりの意見を言ってくれました。私も彼女の意見を受け入れて絵は趣味でやっていくことにしました。

進路の決まらない私は八方ふさがりでした。数学、理科系は苦手だし、体育も家庭科も得意じゃない。じゃあ残された好きな英語で進路を決める?でもどうやって?分かりません。どうにもこうにも。Uさんは「まだ3年生は始まったばかり。悩むことないよ。」って励ましてくれました。本当にUさんは信頼の友。心から私のことを思ってくれる友達は彼女だけでした。私たちは本当に心から呼べる親友でした。親友って素晴らしいです!

こんな状況で文法の何が役に立つと言うのがますます疑問が募るばかりでした。毎日読み書きの連続。もういい加減この勉強法には飽きてきました。でも学校の方針だから仕方がありません。先生からは相変わらず「○○文の文法をしっかり押さえておくこと。」ばかり。私は納得いかずで本当にこの勉強方針でいいのか?と叫びたいくらいでした。

英語が好きでも英会話の授業がないことに納得がいかなかった私

高校生になって沢山の友人が増えました。Uさんだけじゃなく、Mさん、Jさん、Fさんなど。他にも仲良しの友人が現れて私は充実した高校生活を送れることが出来ました。私の高校では月に1回、「合宿セミナー」というものがありまして、2泊3日学校に泊まって集団生活をする習慣がありました。昼間は普通に授業を受けて、夕方から夜にかけて学校の食堂で夕飯をとり、それから30分ほどくつろいだ後に3時間学習という自分の好きな勉強をするといったものがありました。3時間学習の間に順番にお風呂に入るっていうものありました。学校にお風呂があるなんて当時では考えられないことでした。他校からは珍しがられました。

3時間学習は夜の7:00~10:00まででした。もう夜ですから1日の疲れが出て、ウトウト居眠りする人が出ました。そうすると見張りの先生が木刀を持って肩にトントンと居眠りしてる生徒を起こしていたものです。別に居眠りしてたからと言って木刀で殴るというところまではいきませんでした。怪我の元ですから。

合宿セミナーは上級生、下級生ともに一緒に参加してましたので、いかに年が上であっても下であっても仲良くやれるようにという、コミュニケーションの場でもありました。3時間学習では私は主に英語の総復習等をやっていましたが、眠気との戦いの中で英文を見ながら、内心「こんなに長い文章が声を出してやらせたらどんなにいいだろうな~。」と考えていました。どうして会話の授業ってないのだろうか?話すってことはとても大事なはずなのに。

何回も何回も3時間学習中に頭の中がそのことでよぎり、う~ん、読み書きできるだけが本当の語学勉強なんだろうか?納得がいかない。と感じるようになったのは高校2年の時でした。でも先生には「どうして会話の授業を入れないんですか?」と聞ける勇気が私にはありませんでした。先生におせっかいな生徒と思われたくなかったからです。

あ、そういえば親友のUさん。Uさんは日本へ来て1年足らずで日本語堪能になりました。彼女にどうして日本語が堪能になれたのかその理由を聞くと、日本の中学に1年間編入出来たおかげで担当講師の教えでまずはあいうえおの五十音順から始まり、ひらがな、カタカナ、漢字等順番に声を出して読んだり書いたりする練習を何度も特訓したそうです。特に難航したのは漢字。中国に住んでた彼女は中国語と日本語の漢字の違いに違和感を覚えてでも必死に声を出して漢字の読み方、書き方を担当講師から教わったそうです。彼女だって日本来たての頃は全然日本語等話せなかったんです。でも日本に来た以上は話せないとこれから高校へも行けないということから、必死に日本語を勉強したのです。全然話せなかったのに1年少しで堪能になったのです。日本語は難しいと言われているのに。

これはもうUさんの努力の結晶です。とにかく母国語以外の言葉を話せるようになるには音読、声を出しての発声練習、それから読み書きでの勉強法をしたと聞かされました。だからUさんは日本語が上手になったのです。兄弟の中で一番上だった彼女は一番日本語の上達が早かったそうです。

ところで肝心の日本人の私たちは?英語を学んでますのに、何も話せません。Uさんの1年少したらずの日本語上達法を知らされて、毎日のように英語を授業で学んでますが、何一つ会話の知識は得られてません。不思議です。これは。

どうも納得がいきません。何故にこんなに文法ばかりにこだわる勉強法してるんでしょうか?そりゃ文法だって大切なのは分かりますが、話せないと意味がない。テストでいい点が取れても私は素直に喜べませんでした。

高校生になって英語の勉強の分野が分かれた戸惑い感!

中学を卒業し、高校へ入学しました。9年間の義務教育を修了し、いよいよ大人へ近づいていく年頃になっていきました。高校での英語教育で印象に残ってるのは文法教育と読む教育が二手に分かれてたことでした。これはさすがに戸惑いまして!何故英語なのに、2つに分けて授業するわけ?と不思議で仕方なかったのです。

中学時代と違い、高校の英語はますますレベルアップ。長い単語と長い文章。長文読解という問題が初登場しました。長文読解というのはある英文の小説の一部や新聞の記事など長い文章を読んで、その内容がどんなのだったのか簡単に説明するというものでした。ある程度日本語に訳さないとそれは説明できません。かなりの難問で内容をスラスラ説明できる生徒は少なかったです。

高校になって初めて英語の辞書を手にして、分からない単語は辞書で調べて自分で長文を訳して大体の内容を説明できるようにするということが多くなりました。英和辞典を引くだけでも大変で、長文の内容をまとめることは私達生徒にとっては大変な勉強法でした。またまた高校でも英語嫌いが多く出ました。長文読解で内容を説明することが上手く出来る生徒が少なくて、脱落者がけっこう出ました。高校の先生も厳しくて、「勉強についていけない者は落ちこぼれであるね!」と一喝。昔の「落ちこぼれ」はもうできなくなるとどこまでも落ちこぼれていきました。もう義務教育ではないので、赤点というのがあって、○○点以下は赤点と言われ、それが本当の落ちこぼれと言われていたのです。

文法と読む教科書が別々にされた戸惑い感。慣れるまで本当に時間がかかりました。中学時代は「ニューホライズン」の1冊だけで済んだのに、高校になってからは2種類に英語の教科書が分かれました。時間割的に2時間続けて英語の授業が続きました。文法用授業と読む(読解力)用授業と。う~ん、当時の私にも何だかいくら好きでも英語に対する勉強法の負担感がありました。覚えることがますます増え、赤点にならないように必死で勉強しました。

私の通ってた高校では4教科以上赤点を取ると親呼び出しでした。このままでは留年の可能性があるという話し合いが目的だったのです。赤点は私にとっては恐怖でした。他の教科で1つ赤点を取ったことがありましたが、そのショックが大きくて、このままじゃ自分は留年だ~って大泣きしたことがあったんです。でも親友と呼べる人が現れ、いつも「大丈夫よ。次回挽回すればいいんだから。」といつも励ましてくれました。彼女は私にとっての信頼の友Uさんです。Uさんは父親が日本人、母親が中国人のハーフだったのですが、日本語がとても堪能で、元々は中国に住んでいました。でも彼女の父親の親族と連絡が取れたことにより、家族全員で日本へ来たそうです。日本に来たころのUさんは日本語が全然話せなかったそうですが、1年間だけ父親の故郷の中学に編入し、日本語を学んだそうです。1年で日本語が堪能になり、Uさんは努力家だな~って同姓ながらも私は彼女を尊敬してました。Uさんは皆よりすごく大人でした。

日本語を覚えたばかりのUさんも英語は苦手でした。まだまだ日本語では分からない面があるというのにこれ以上英語を学ぶなんて・・・。彼女には相当の負担感がありました。でも私と親友になったことにより、分からない英語でも一緒に勉強したいと言ってくれました。戸惑い感はUさんの方が大きかったですね。

私が英語が好きだということを話したら、是非英語を教えて欲しいと頼まれました。Uさんにとっても私にとってもお互いに親友と呼べる仲になり、交換日記を始めて一緒に英語の勉強を始めました。

中学英語は文法中心の学習がやたらに多いと感じたその理由

中学3年間英語を学んで、レベルは上がったことは分かりました。でもO英会話教室の様に話すという授業のカリキュラムがありませんでした。1年生の初期だけA,B,C~をただひたすら発音するだけで、後は只管文法、文法の勉強の連日。練習問題もテストも文法に関するものばかりでした。

1年間だけだったけど、O英会話教室では一生懸命アルファベッドからお互いの挨拶の練習まで声を出してやったのに、中学3年間はそういったことがありませんでした。教科書通りに読んで英文を書く。話す機会は全然ありませんでした。

英語はいわば日本語以外の初めての外国語として中学から学び始めました。重要な文法はひたすらそのまま丸暗記で覚える習慣が多く、まだ何もわかってなかった私はそれが当時は当たり前だと信じていました。でもこの年になって折角の義務教育、それも重要な外国語の英語を学んできたのに、話すチャンスはなく・・・。

やたらと多かった専門の文法用語。中学生だった私には訳が途中で分からなくなり、O英会話教室で学んだ少しの会話まで忘れそうになってしまいました。あれは本当にためになった教室でした。あそこへもし通ってなかったら、私は英語が好きじゃなかったかもしれません。いえ、皆の様に敬遠してたか、嫌いになっていたでしょう。1年早く通わせてくれた母に感謝しています。

中学の英語の練習問題やテスト問題はとにかくワンパターンでした。文章を並べ替えたり、やたらと( )に何の単語が入るのか書くだの、選んで記入するだの~!!そういうのばかりでした。

だから英語を嫌う生徒が増えたのかもしれません。先生ももう少し生徒の事を考えて分かりやすく勉強できるように配慮してほしかったです。文法さえわかっていればいいという教え方。長々した分を覚えたところで話すことへの力など繋がりませんでした。O英会話教室のように、カセットテープで会話などを聞かせて聞く力をつけさせる。そういうのはなくて、ひたすら文法ばかり。どこか大切な所が抜けていたように思います。

現代もそうですね。今の中学生も一通りの文法は学んでも、話す力はありません。文法も覚えることは勿論大事です。本当に勉強するにおいて英語は世界共通語なので絶対に必要なものです。

中間・期末で点数が悪いとアンバランス勉強法という制度が私が中学3年の時にありました。英語の不得意な生徒は呼び出されて、放課後に点数をよくするために課題学習を行っていました。他の教科でもありました。私は数学が苦手で、いつも点数が悪かったので数学の課題学習をやっていました。不得意な教科は本当に課題を与えられても辛くって今にも泣きだしたい気分で、逃げたくなるような気分にさらされました。でも先生は厳しくて、「少しでもサボった奴はあとで木刀で殴るぞ!」と激しい口調で言ってました。今でしたら、もう親が黙ってないでしょうね!

英語の文法の理解できない生徒に対しては先生が「何が理解できないんだ?」と聞き出し、分かるようになるまで徹底的にしごきました。それでも理解できない生徒にはビンタ。今では考えられない先生たちの行為です。そして正座を数分間させられるのが当たり前でした。

中学当時は分からなくても今になって色々思い出すと、中学の英語から文法中心の授業が多く、脱落者が出てもおかしくないと思います。先生たちも教えるのに必死だったのは分かります。でも英語は外国語なんですから、文法も大切ですが、話すこと、聞く力の教えが本当に不足してました。

どんどん進む英語の面白さと難しさ!でも会話の勉強は?

中学2年生になりました。段々と英語の勉強のレベルも上がり、1年生の時よりも英語を嫌っていく子がどんどん増えていきました。私は面白いと思っていたんですが。でもどうしてこんなに英語嫌いな子が増えてしまったのでしょうか?当時中学生だった私には理解できませんでした。勉強するのに毎日が夢中で覚えることも盛りだくさんでまあ人それぞれ好き嫌いはあってあたり前くらいにしか思ってませんでした。

2年生になってくると1年生ときとは違い、長文の英文を学ぶことが多くなりました。もう単語だけの世界じゃなくなってたのです。1語1語覚えるのではなく、長文そのものを暗記することが多くなっていたのです。だから中学の英語は丸暗記で学習するものなのか~くらいにしか思ってませんでした。

英文の中に絵もありました。英語が分からなくてその絵を授業中に塗り絵にして遊んでいた子がいました。もうそういった子たちはすっかり英語に対して勉強する気力さえなくなって、つまらないので伏せって寝る有様でした。でも先生はそういった行為は絶対に許さず、寝てる子めがけて黒板のチョークを投げたり、耳を引っ張ったりして起こしてました。

テスト問題も本当に難しくなってきました。文法の問題が多くて、英文があって( )の中に入れる単語を書きなさいとか選択肢から正しいのを回答すると言った形式が多かったです。英文を良く読まないと解けない問題が多かったです。2年生の初めての中間テストでは平均が33点でした。先生は「平均点が悪い!皆勉強してない証拠だ。」と激しく怒りました。でも生徒の中には「だって先生、難しいものは難しいんだから仕方ないよ。」と言ったところ、先生は逆上して「何を言ってるか!それは君たちがちゃんと授業をきいてないからテストの平均が悪いんじゃないか!もっと本腰入れて勉強しろ。でないとろくな高校へ行けないぞ。」その時の先生の顔は怒りでもう真っ赤になってました。怖くて反論出来なくて、女の子の中には泣き出す子もいました。

2年生での英語の授業では教科書の英文をひたすら読む、書く、大切なボキャベラリーには付箋を引いて暗記する。そういった内容の授業が多かった覚えがあります。現在進行形を過去形に変更したり、関係代名詞、過去分詞などの文法用語がありました。とにかくこれらの文法用語は大事だから特に覚える必要があり、何度も復習をしないと覚えられない状況が続きました。さすがに英語好きな私でもこれは参った!と言わんばかりに初めての挫折感を味わいました。

英語好きなのに。何も今は難しすぎて分からない。どうしたらいいんだろう?私は涙ポロポロこぼして自分の部屋の勉強机で泣いてました。難しさが頂点に達した時期がきたのかもしれません。

なのに会話。あの6年生の時に通ったO英会話教室のように会話の時間が中学の英語の授業にはありません。どうしてなんだろう?何故会話が無いの?不思議に思ったのはこのころからでしたが・・・でも義務教育だからそういった規則になっているのかな~と勝手に思い込んでしまいました。懐かしいO英会話教室のテキストを手にとってあのころに戻れたら楽しく勉強できるのに・・と思い出にふけっていました。

会話が無い。只英文を読んで書いて暗記する。それが中学英語のやり方なんだ、授業だから仕方ないくらいにしか思ってなかった私。皆も考えは同じでした。1年生の最初の時だけ発音練習しただけで、その後は何もなし。今考えると何だか中学の英語の授業の進め方って疑問点が多く残ってますね。私の息子や娘も中学時代には会話の授業がありませんでした。何も変わってないということになります。

嬉しかった!中学入学後の初めての英語の中間テストは83点

小学校の時とは違って中学生になると決まって中間テスト、期末テストと2回テストが行われます。これは平成の今でも変わりませんね。まだ中学生なりたての私にとって初めての中間テスト。テストの1週間前に範囲発表とテストの時間割。皆はああ~とため息をついてテストの時間割を見てました。それに小学生とは違ってクラス順位、学年順位がつくということ。これには参りました。私の時代はクラスが全部で9クラスあって、1年生だけでも360人はいました。

そんな~順位がつくなんて!私にはとっても耐えられませんでした。当時の担任はクラス全員の名前は伏せてたものの、科目の点数、順位は表にして作成してたんです。だから名前が無くても誰がどこの順位かという推測なんかすぐにできたものです。

さて、英語の初めてのテスト。私はO英会話教室の習った分がすごく範囲に入っていて何だか皆より有利な気がしました。これも6年生の時に1年間早く英語を勉強しておいたお陰です。テスト監督の先生の「用意、始め!」の言葉を合図にテストは開始されました。初の英語のテスト。手に汗を握り、何だか教室中が緊張感であふれてました。これが中学生になって初めての中間テストの緊張感です。

皆鉛筆で書く音があちこちに響き渡ります。私も何とかいい点を取りたい!という思いからテスト問題に取り組みました。問題を見て私は「お、これはO英会話教室で教わったもの!書ける!あ、これもあれも~!!書ける!」とスラスラ解答出来ました。難しかったのは単語を書きなさいくらいのものでしたでしょうか。

テスト時間は50分間。母には「わからない問題は後回しにしてわかるものからやりなさい。」と言われた通りに実行しました。手に汗握るこの震え。鉛筆は汗でぬれてました。そしてテスト終了の合図を示すチャイム。監督の先生が「はい、後ろから回収して。」と指示を出し、皆ふう~と疲れた様子でした。

テストが終われば友人同士でこの問題難しかったとか簡単だったとか話しあいました。でも中学のテストってこんなに難しいものだとは。私は勉強は好きではなかったので、これからも3年間も中間・期末テストがあるのかと思っただけで憂欝になりました。

テストが終わって各科目ごとにテストが返されました。あの時の胸のドキドキ感は忘れもしません。「悪い点だったらどうしよう・・・?」私は悪い点数だったら母に答案を見せる勇気がありませんでした。特に私は小学校の時から算数は大の苦手で、中学になって数学に変わってからも点数は悪かったんです。小学校の算数では割合問題が特にダメでした。今でもダメです。お恥ずかしい話です。自分の息子や娘にまで最近はバカにされるようになりました。(笑)

でも英語はその大反対!思ったよりいい点が取れました!当時の点数は83点。全体の平均点は65点でした。母に当時の両極端に悪い点の数学の答案と83点の英語の答案を一気に見せました。その時の母の反応は?「あんたって両極端すぎるねぇ。出来れば数学をもっと頑張ってほしいんだけど。」母は英語の83点を誉めてはくれず、数学の悪い点のことばかりにこだわって私を叱り続けてました。

でも私は自己満足でした。母には誉められなかったけど、初めての英語のテストで平均点以上の点が取れたからもうそれでいいと思いました。別に100点満点を目指してたわけでもありません。私は英語が好きだから、もっと今後どんな勉強法が待ってるのか楽しみにしてたくらいです。

ブロック体・筆記体を学んだ教材ペンマンシップの思い出

中学生になって初めて学ぶ英語はアルファベッドの発音からではありません。やはり英単語を書けるようになるためには、まずアルファベッドのブロック体と筆記体をマスターしなくてはなりません。ブロック体は教科書の見本そのまま書けばいいのですが、筆記体は外国人が書くようなアルファベッドのくずしたような書き方でした。

ブロック体・筆記体の教材に当時「ペンマンシップ」というものが使われておりました。表紙の絵はロンドンの兵隊の写真?イラスト?になってた覚えがあります。色はモノクロでした。懐かしいですね。これで私たちはアルファベッドや単語の描き方の練習をしていたのです。慣れない筆記体。こんなくずしたような文字が書けるようになるのか?でも本物の筆記体は本当に日本人には読めなくて、分かりませんでした。でもこれが本場アメリカ人の書く英文の文字筆記体。見た時にはこんな字で果たして読み書きできるようになるの?とさえ不安を抱かずにはいられませんでした。

「ペンマンシップ」の教材の中には4本線が引いてあり、ここに英単語、アルファベッドの書き方の練習をしました。先生からは「何でも最初から上手に書こうなんて思わないことです。何度も練習してそれぞれ書き方が上手になっていくのですよ!」と力こめて教えてくれました。慣れない手つきでの書き方の練習。何週間も続きました。特に筆記体はとても難しく、書いてる最中にあまりにもの難しさに途中で投げ出す子もいました。

その時の先生の怖い顔!今でも印象に残っています。「なんですか、その態度は!やる気がないなら出ていきなさい!」しかり方も半端じゃなかったですね、女性の先生でしたけど、今の時代だったらすぐに親出現です。「なんて教え方してるんだ?」と親の方が逆ギレですね。私達昭和の時代の先生は物凄く権力があり、怖い先生、面白い先生とハッキリしていました。

ペンマンシップではよく宿題としても出されました。先生の指示で範囲が決められ、ブロック体・筆記体の練習を繰り返しやるように言われてました。練習しているうちにあんなに難しいと感じてた筆記体が徐々に書けるようになりました。初めはあんなに悩んだのに、ウソのようです。な~んだ、ブロック体より早いし、楽にかけるではないかとこの時思いました。

私は段々筆記体で書くことの楽しさに味を覚え、先生が黒板に書く英文は筆記体で書くようになりました。筆記体は日本語で言えば行書体のようなもの。書き慣れると案外楽しくて、もう何でもスラスラ~と書けるようになりました。先生からも「筆記体、上手になったね。」と誉められ、私はますます英語好きになった?という感じがしました。英語って何ていい教科なんだろう!日本語以外の勉強が出来るなんて素晴らしい!と考えてました。

でも友人たちの中にはもう英語に対する敬遠・嫌いだと言い出す子が出てきました。「こんなの分からん。訳分からん。勉強するの嫌だ。」まあ、中学入学していきなり英語の授業ですから、違和感は誰もがありました。でも私はO英会話教室に行ってたお蔭で英語の勉強の面白味を知りました。どんどんこれからも勉強は進行していく。どんな形になるかは分かりません。でもまずは基礎中の基礎、アルファベッドのブロック体・筆記体の書き方の練習に精を出していました。

筆記体は書きやすいですね!今でも私は英文を書くときは筆記体を使います。でも最近私の息子と娘が私の英文を見て、「これ何?英語?読めない。」と言ってたのです。私は2人に「え~、あんたたち筆記体知らないの?」「うん、知らない。」今の英語教育では筆記体を教えてなかったことが判明したのです。

中学校に入学して初めて手にした英語の教科書のワクワク感!

小学校卒業とともにO英会話教室を辞めた私。一緒に通ってた幼馴染2人も辞めました。中学に入学し、新しい生活が始まりました。まず新品のセーラー服。そして小学校時代とは違う教科書の量の違い!何もかも驚きの連続。そんな中、英語の教科書がありました。名前は「ニューホライズン」。めくると最初のページにO英会話教室で学んだ文章が載っていました。

中学生活が始まって英語の授業は私の中でワクワク感がありました。「ニューホライズン」の教科書を手にしてから。そして最初なのでアルファベッドから覚える事からスタートしました。

暫くして先生から1人ずつ前に立って26文字のアルファベッドの発音をしてもらうという何とも変わった練習会があったのです。私は皆の前に立つと極度の上がり症で、頭が真っ白になってしまうという習性がありました。今になって考えれば26文字のアルファベッドの発音を皆の前で披露することは恥ずかしいことではないのですが、当時の私にとっては恥ずかしいってものではなかったのです。先生がついに私の名前を呼びました。

教壇の前に立ってはみたものの、体が硬直してしまい、手足はブルブル。どうしよう~上手く26文字発音できなかったら?でも先生が「リラックスしなさい!」と一言言ってくれたおかげで私は冷静になり、26文字の発音を無事に終えることが出来ました!

ぱちぱちと拍手。あれ?何の拍手?と不思議に思っていると先生が「あなたの発音すごくよかったですよ。何処かで習ってたの?」と聞かれ、「はい、実はそうなんです。O英会話教室に通ってました。」「そう、道理で皆より発音が綺麗に聞こえたわけね。その調子でこれからも頑張ってね!」先生のあのほめ言葉に私はますます英語が好きになっていきました。

アルファベッドの勉強が終わると今度は簡単な単語の発音の発音練習と移行しました。やはり物の名前の英語から発音練習は始まりました。この時もワクワクしていました。

特に発音に難しいとされてた単語と言えば、「Pencil(鉛筆)」と「Girl(女の子)」。この2つの単語って案外難しいです。今でもいざ発音しようとなると舌がもつれることがあります。当時皆は殆どが日本語感覚的ににしか覚えてなかったので、発音もどこか日本語っぽくなってましたね。

またまた今度はその単語の発音発表会を皆の前で披露することになりました。でもアルファベッドの頃より私はもうすっかりあがり症はなくなっていました。それで再び名前が呼ばれて皆の前で単語の発音を披露しました。先生がまた私を誉めてくれました。特に難しいと言われている「Girl」と「Pencil」の発音が綺麗だったと言うことを。そう、これはO英会話教室に通ってる時に何度もカセットテープでヒアリングで聞いてて、すっかり発音を覚えてしまっていたのです。これが私にとって最初の英語に対する自信につながる収穫でもありました。

放課後よく友人たちから「ねえねえ、Girl,Pencilの発音してよ~!!」なんてよく言われました。「上手いよね、私等出来ないよ。将来英語の先生になったら?」など冗談交じりに言ってくる子もいました。

英語の先生から発音が綺麗だと誉められて以来、私は英語力をもっとつけられたらなあ~と考えるようになりました。

小学6年生の時英会話教室に通い始めて英語の面白さを知った

小学6年生だった時、近所の幼馴染の子たちは何かしら習い事をしていました。習字、ピアノ、熟通い、英会話教室など。私は主にピアノと習字を週1回通っていました。そんな時、私の母が近所のお母さんたちにつられたのか、私に「○○○町の英会話教室行ってみたい?」なんて急に聞き出してきたのです。「はあ?英会話?だってピアノと習字で十分だってお母さん言ってたでしょ?」「う~ん、でもね○ちゃんと○ちゃん、通い始めたんだって。」「ふ~ん、あの2人がねぇ。」当時6年生だった私は何とも思わなかったのです。

その英会話教室は昭和のアイドルだった女性歌手(現在は引退)MYがイメージキャラクターでCMに出ていました。「A,B,Cは知っててもそれだけでは困ります~!」というセリフが売り出しでしたね!O英会話教室です。(今はもうありません。)

でも幼馴染の2人からその英会話教室の話を聞かされて、何となく私も行きたい気になり、母が早速申し込んでくれました。その幼馴染の2人と同じクラスに入ることが出来ました。

教室はとても近距離で子供の足でも十分でした。ワインカラー色をした教材、アルファベッドを並べるためのビンゴ版、その他色々な英会話の教材がありました。それが私と英語の初めての出会いだったのです。

先生はとても優しくて面倒見のいい方でした。カセットテープでまず英語の会話を流して皆でヒアリングをしてました。初めての体験で私は英語は勿論初めてなので「???何?何て言ってるのかな?」と驚きの連続。でも前から通ってる幼馴染の2人はもう慣れて色々教えてもくれました。

英会話教室は毎週木曜日で私はどんどん通っていくうちに楽しさを感じるようになってきました。中学生になれば英語の授業があることは知っていましたが、1年も早く学べて何だか得をしたようなそんな気分でした。

特に楽しかったレッスンはビンゴ版にアルファベッドを並べる事でした。まだA,B,C~など知らない私にとっては覚える事自体がとても楽しかったのです。先生の指示でこれとこれを並べてね~って遊び感覚でやっていたことを今でも覚えています。

それからカセットテープで聞いた単語を繰り返して聞き、それを真似して声を出して言う。まずは短いものから。「Apple」「Peach」「Pencil」「Piano」「Book」等まず物の名前を英語にしたらどうなるかを学びました。

段々レッスンが進むにつれ、今度は自分の名前を英語で話す練習もありました。「My name is ○○.」「Wha’t your name,plase?」ですね。

最初は違和感があった私でしたが、6年生で英語ってこんなに楽しいもの~って感じるようになりました。教材を使ってお互いに名前を聞き合ったり、物の聞き方の会話のやりとり。本当に小学生にとっては初心者中の初心者で分かりやすく丁寧な教え方でもあり、私は当時の先生に英語好きにしてくれたこと、感謝しています。

大人になった今でもその当時の教材が保管してあります。状態はとってもいいです。思い出の詰まったものばかりで捨てることが出来ませんでした。すっかり古ぼけてはいますが、子供だったころの想い出は消えていません。

英語との出会いが私の今後の運命に大きく関わって来そうな予感がしてました。

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